【記者!独断と偏見の名馬ベスト10】

 〇昭和44年〜45年代 ニューキコーシテンリユウツバサタニハード
 それぞれ中央下がりで、下級条件から連戦連勝。これらの対決を望む
ファンの要請で、後の新潟グランプリ競走が設立される。

 〇昭和46年デビューのアラブ・エルワン。同年11戦無敗で翌年、アラブ のメッカ・園田に移籍し、彼地のオープン馬として活躍。

 〇現役時代はそれほど印象に残る馬ではなかったが、母馬として名を成 したトップライン。昭和47年デビューのアラブ・ダイニトップラン、昭和49 年デビューのキングトップランなど多くの全日本クラスのオープン馬を輩 出。特にダイニは笠松において当時のレコードを更新したほか、通算42勝 の超のつく大物。

 〇昭和51年夏、6歳で中央からきたアイアンハート。クモハタ記念を制すなど 中央でも十分通用する実力馬だったが、脚部不安のため出走数は少なか った。それが新潟の名門・向山調教師にかかるとオープンを11連勝。その 中には新潟グランプリ2連覇、岩手、山形、新潟の東北三県のサラブレッド bPを決める初代チャンピオンにも輝くなど、まさに無敵の存在だった。あまりの強さに当時はオープン馬の購入を控える馬主さんも多かったほどである。

 〇その他、中央下がりで一世を風靡したホクエツオーシナノチカラ。NHK 杯を勝ったアラジンオー、ダービー2着のヤマニンカップ。大井の東京大賞典を制したアシヤフジの名も今では懐かしい。

 列挙した名はいずれも昭和40年代から昭和50年代半ばで活躍した馬 ばかり。近年のファンは名前すら聞いたこともないだろうが、思えばこのこ ろが県競馬の最も活気を呈していた時期だったのかもしれない。うなぎ上 りの売上金もさることながら、それに伴う人馬のレベルも岩手、山形、新潟 の緒についたばかりの三県交流レースではそれほど際立っていた。
 それ以後は稼げる馬の他場移籍が相次ぎ、上位クラスの空洞化が目に つくようになっていった。結局、スターホース不在が県競馬の凋落を招いて しまったのである。

 

【あなたが選ぶベストレース】

  第一回新潟グランプリ 昭和46年(1971) 距離1,780m
  1着ダイイチカルペール 2着イチダブル 3着リバーウエル

 1、2着は15分にも及ぶ長い写真判定の末ハナ差の微差。そのうっぷんを晴らすためか、イチダブルは中10日の強行日程で臨みあえなくパンク。薬殺処分となってしまう。(かわいそうですね〜)
 勝ったダイイチカルペールは翌年のグランプリも制覇。明暗を分けたレースと記憶に残る。

 

【今だから笑える話】

 昭和46年8月23日 第3回新潟2日目9レースのメインレース

 好位置をキープしていた1番人気のリバーウエルが直線抜け出し快勝と誰もが思った瞬間、その事件は起こった。なんと鈴木春騎手がゴール100メートル手前のハロン棒をゴールと間違え追うのを止めてしまった。後を追っていたバンダイマサルオールメントに間隙を突かれてよもやの3着。ファンは一瞬何事が起こったのかあっけにとられていたが、すぐにざわめきが起こり「八百長だ〜」の声があちこちで上がり始めた。たちまちクズかごから火の手が上がり、馬場には怒ったファンがなだれ打って出るなど場内は騒然。しばらく混乱は続いたが、警察官の投入で騒ぎはそれ以上拡大せずに収まった。残った最終レースは当然中止となったが、何事もなかったように翌日から開催が続行されたことは正直言って驚きだった。辛抱強くて控えめな越後の地だったからこれで済んだが、気の荒いファンが多い南関東や関西だったら、大変な暴動になっていただろう。しかし、筆者の愛車が災難にあっていた。取材記者は当時、場内スタンド脇に駐車を許されていたのだが、我が愛車が一番スタンド寄りに置いてあったため、ちょうど暴漢の標的になったらしい。運転席側の窓ガラスがめたくた、車輌保険に入っていなかったので、修理にン十万円もふんだくられました。笑い話にもなりませんが、駆け出し時代の苦い思い出です。

 

                   次へ続く