【県競馬を振り返って

 平成14年1月4日、昼前から降り始めた雪で2R以降中止。残ったレースは翌日順延の緊急措置が採られたが、降り積もった雪で開催がもはや望み薄であることは想像に難くなかった。せめて最後は日程どおりに終わりたかったし、これまで応援してくれたファンとの名残も惜しみたかった。関屋時代から50余年続いてきた新潟競馬も、「これで終わりか」と思うと、胸に去来するものがあり目頭が熱くなった。名馬、名騎手、名勝負、その時代に立ち会ったさまざまな出来事が走馬灯のように駆けめぐる。

 昨年、夏あたりから県競馬廃止の新聞報道が流れ始めたが、この時期の関係者は一様に危機感が薄かった。止めるにしても「何年か先だろう」と…。 ところが、秋に入るとリーク記事はどんどんエスカレートし、内容も信憑性を増していく一方。さすがに競馬サークル内でも、ことの重大さに気づいたが、すでに県競馬主催者である平山知事の腹は決まっていた。それも平成13年度限り。11月5日の知事表明で県競馬の退路は絶たれたが、あまりにも唐突な廃止で関係者の戸惑いは隠せない。また新潟と似たような状況下にある他の競馬場に与える影響は大きく、今後の補償交渉からも目が離せない。

 廃止に至った原因は何だったのか、そのあたりを検証してみたい。まずは最大馬券購入者であるサラリーマンの可処分所得がバブル崩壊、デフレ経済へと移行する過程で大幅に減ったこと。さらにリストラの恐怖、出生率の低下で年金に対する将来不安が個人消費を一段と抑制させており、競馬や他のギャンブルに限らず、各産業に大打撃を与えている。

 次に中央競馬の存在も廃止に追い込まれた要因。新潟競馬の売り上げがピークを記録した昭和54年は、新潟が215億円に対し、中央は241億円。当時はまだ共存できる関係にあったが、平成6年には新潟が178億円、中央は618億円 。その後の新潟県競馬はご存知のように売り上げはつるべ落としで、今日の惨状をみることになったのである。地方競馬出身の筆者からみても馬の質、競馬の内容、賞金、施設の充実度、どれを取ってもスケールが違いすぎる。早急に抜本的な対策を講じない限り、弱小競馬場は遅かれ早かれ、中央競馬に駆逐されていく運命にある。

 さらに、県競馬組合という組織のあり方にも問題があった。この組合は新潟県、新潟市、三条市、豊栄市で構成され、管理責任者は新潟県知事。あとの三市長が副管理者として運営されてきたが、実務を取り仕切ってきたのが開催事務局長。問題はこのポストである。県からの出向者で主に農林畜産課の課長、またはそれに準ずる立場の人で、期間は2年から4年。中には有能な人もいたが、多くは定年まで大過なく居座るまさに県の天下りポスト。複雑な競馬業務をようやく把握しかけた頃に任務を終えるため運営に一貫性がない。加えて公務員という性格上、経営感覚に乏しいきらいは否めなかった。この点を県競馬に影響力ある人に質問してみたが、競馬組合法に《県職員で管理者の指名》と定められているため、一般社会で功績をあげた経営者でも参画の余地がなかった。これは新潟にとどまらない。組合で構成されているところはどこも同じ問題を抱えており、売上低迷の知られざる一因を成している。このほかにも廃止になった要因は多々あるが、取りあえずこのあたりで締めておきたい。

 競馬担当記者として入社したのが昭和44年。以来、馬との関わりで多くの友人、知人ができたことに心から感謝している。そして長い間の記者生活で、取ったレース、はずれたレース、裏話など枚挙にいとまがない。いずれ何らかの形でファンの皆様にご披瀝してまいりたいと思う次第です。

 「スポーツと競馬」を長い間ご愛読いただき、心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。