ロバリーハート
新潟県競馬では28戦20勝(遠征除く)
主な勝ちクラ 群馬記念GV(98年・高崎)、新潟グランプリ(97年、98年連覇)、東北サラブレッド大賞典(98年・上山)、朱鷺大賞典(99年)
群馬記念・過去3回の覇者ロイヤルハーバー、ホクトベガ、ストーンステッパーに肩を並べた功績は光る。グリーンサンダー、メイショウモトナリ、フジノマッケンオーなどを抑えて、新潟所属馬初のグレードウイナーに。

 横山孝四郎きゅう舎の横山孝清(昭和45年生まれ)厩務員は、父・横山孝四郎調教師の三男。兄2人も厩務員という競馬一家。横山孝四郎きゅう舎といえば、これまで新潟グランプリを連覇したダービーアール、新潟記念を制したトミノゴーランなど、県競馬の歴史に残る名馬がそろう名門で、90年代後半には1年を通じてサラ古馬の重賞タイトルを総ナメにする偉業を成し遂げた。横山厩務員はロバリーハートの他にも朱鷺大賞典などを制したイブキクラッシュも担当し、東北サラブレッド大賞典ではロバリーハートとのワンツーを決めている。

 横山厩務員はロバリーハートと巡り合うまでは、きゅう舎の歴代名馬を手がけたことはなかったが、条件馬だったゲットタイカンを9歳の時に豊栄記念で優勝させるなど、師であり父である名トレーナー・横山孝四郎の血を強く受け継ぎ、若手ながらその手腕は早くから注目されていた。新潟グランプリVでロバリーハートの素質を開花させ、新潟の看板ホースへ成長させると、翌年には「群馬記念GV」までも制して、「新潟にロバリーハートあり!」と全国にアピールした。

 −血統のいい馬ですし、初めからかなり期待していたんじゃないですか?
 「当時、ジェイドロバリーもまだ注目されていなかった頃なので、それほど期待はしていませんでした。初めて見た印象は「馬鹿ッポ」というひと言ですね。とにかく、クセの悪い馬で入きゅう当初は調教でブリンカーをつけていましたし、中央未出走であっさり新潟に来たのもうなづけます。大型馬でしたが、カリカリと神経質でエサ喰いが悪く、牝馬よりもタチが悪かったですね。カイバは1日4回に分けたりとか、食べやすいように細かく刻んだり、特殊な食べ物を与えたり、いろいろ工夫しました。ただ、馬っぷりはよかったので気性面が成長すればB1級くらいはいけるかな…と思っていました」

 −転入後3戦目から12連勝でグランプリを制しましたが…
 「初戦、2戦目はカイバ喰いが悪く、スタートで出遅れて2着、3着でしたが、レースに慣れてきた3戦目、年が明けてからはポンポンポンと勢いがつきましたね。それでも相変わらずカイバ喰いが悪く、馬屋の中でも暴れることが多かったです。人間がそばにいるとおとなしいけど、誰もいなくなると馬屋で壁を蹴っていました。ガンガンと音がするので行ってみると、大きな穴をあけていたのにはビックリしました。厚い板にかえても、また穴をあける。とにかくケッパリの強い馬でした。連勝中でもオープンまで出世するなんて思っていませんでしたが、10連勝目のA2戦でイノセントライムに楽勝した時に「ひょっとすれば…」とグランプリを意識しましたね。ちょうど、そのレースから主戦だった森川さんが自きゅう舎にいるハイフレンドキング、村岡きゅう舎のヤングノーブルとの関係から乗替わることになったのですが、牧くん(向山騎手)が自ら騎乗を申し込んできました。牧くんはその時グランプリ2連勝中だったので、人馬ともに勢いがあるので何とかタイトルを取れればいいなぁと思いました」

 −翌年の5月にGVの群馬記念を制しましたね
 「オフシーズンの間に、馬主さん、先生と話し合って春1回たたいてから「群馬記念」を目標にすることに決めました。夏場に弱いタイプなので、状態のいい時に強い相手とやらしたかったですから。もちろん、まさか勝つとは思っていませんでしたよ。やはり中央馬とはレベルの違いがあるし、入着いっぱいの気持ちでした。ただ、、群馬記念の時がこの馬にとって生涯
一番のデキでした。カイバはよく食べてくれたし、毛ヅヤも最高、状態面だけは自信がありました」

 −群馬記念を勝った瞬間はどういう気持ちでしたか?
 「実は、ゴールした瞬間は見えなかったんですよ。厩務員はゴールから離れたバスの中で待機していたので…。バスの中で誰かが「黒い帽子だ。2番の騎手が手を上げたぞ!」と叫んだので「まさか?」と思いましたね。慌てて馬の方に駆け寄ったら本当に勝っていました。正直、足が震えました。レース後の口取り式の間も足の震えが止まらなかった。馬に優勝馬のレイをかけたり、記念写真を撮ったり、何にも覚えていません。興奮していたというか、頭の中が真っ白でした。あんな経験は後にも先にもあれっきり。後でレースビデオを見たけど、3コーナーから仕掛けて4コーナーでは余裕を持って2番手に進出、直線はグリーンサンダーとマッチレースでしたが、着差以上に強い内容でしたね」

 −次走の東北サラ大賞典を制しましたが、夏のBSNオープンでは5着でしたね
 「上山の東北サラ大賞典ではプレッシャーがありましたね。東北が舞台のレースですから、今度は挑戦する側から挑戦を受ける立場になっていたので、とにかく体調管理が大変でした。相変わらずカイ喰いが悪く、輸送もあるので、気が抜けない毎日でした。結果はロバリーハートとイブキクラッシュで1着、2着。両馬とも担当していたので、厩務員としては最高の結果でした。ロバリーとイブキは馬主さんが違いますが、口取り式では一緒に記念撮影しました。あの写真は今でも私の宝物ですね。BSNオープン(中央)ですが、夏場にダートの番組がなかったけど、幸い夏負けもなくこれたので、思い切って芝のレースを使ってみました。馬主さんや先生もあれだけの馬へ成長したロバリーハートを1度芝のレースで走らせてみたかったみたいです。結果は離された5着と芝の適正がなかったみたいですね。この頃から舌をこしちゃうクセが出始めました。ハミの上から舌を出そうとするのでハミが利かなくなるため、このレースからずっと舌を縛ってレースを使うようになりました」

 −その後、グランプリを連覇しましたが…
 「秋の白山大賞典は最悪の状態、あげくに勝負どころで他馬にぶつけられる不利で4着。グランプリも決して満足のいくデキではなかったですが、さすがに地元馬が相手では力の違いでカバーできました。もっと他地区で好成績を残せると思っていましたが、12月の浦和記念では前日に口の中を切って7針縫うアクシデントがあったりして、なかなか結果が残せませんでした。翌年の東北サラ大賞典では腹痛でチェイスチェイスに敗れたように、この頃からちょくちょく腹痛をおこすようになりました。カイバ喰いが悪く、腹痛にも悩まされながら朱鷺大賞典は楽勝しましたが、その後の調教中に屈腱炎になり、宮城の牧場で休養。翌年にはすっかり脚元もよくなり2月にはキャンターを2つ乗れるようになりましたが、もうピークは過ぎていました。開幕戦では馬がフワフワして引っ掛からなくなっていました。そして、2度目の屈腱炎に。秋に復帰後はブリンカーをつけたりしましたが、5着、4着、4着と精彩を欠いて引退…。現在は群馬県の馬事公苑でダービーアール、イブキクラッシュとともに乗馬として第2の人生を送っています」