競馬歴50年・Kの県競馬の思い出

 関屋競馬場で公営競馬が開催されていたころの資料がないので、たどたどしく記憶をたどってみます。

 昭和34年前後だと思いますが、その頃行われたレースは平地競走、速歩競走(はやあし)、繋駕速歩競走(リヤカーをひく)三種類のレースがありました。番組はまだ賞金制度もなく、サラ系、アラ系の区別もなかったし、各競走とも1開催に2、3度使いは当たり前。レースの番組は走破タイムを基にしていたと思います。

 ゲートは左右に腕があり、それに数本の細い綱を張り、腕が上下する方式で、ちなみに馬場は芝馬場だった。

 当時、平地競走の最高クラスは、レース名が「雪花賞」特別といい、1着賞金が20万円で、距離は1,600mか1,800 mだったと思うが定かではない(ちなみに、私のバイト料が1日150円くらい)。

 しばしば、南関東からの遠征馬がいた。そのかわり、Cクラス以下しか受け付けていなかったと思う。その中で、ベンゴールというめっぽう強い馬がいた。

 ベンゴールを見たのは、あとにも先にも1度のレースだけ。主戦は大沢瀞司騎手で、すでに何勝か挙げていたと思う。

 私が見た時は榎肇騎手に乗り替わっていた。聞くところによると、負担重量が重くて(たしか65キロか67キロ)、大沢騎手では鉛を背負わなければならなかったという。この馬のスピードでは鉛の重みでコーナーをうまく回れるかどうか、大沢騎手は自信がなかったとのことで、やむなく乗り替わってもらったそうだ。レースは直線外よりを楽々と抜け出して快勝。これを最後に、当県にはその勇姿を見せてくれなかったと記憶している。